喜望峰から、ホーン 岬まで
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[ 1 : はじめに ]![]() [ 2 : ポルトガル の アフ リカ 西岸探検 ]![]() その面積は半島全体の 15.5 パーセント、人口比で 13.2 パーセント しかなく、ポルトガル は隣国である スペイン からの強い圧力を受けながらその歴史を発展させてきま した。 15世紀から始まった いわゆる ポルトガル の西 アフ リカ 探検は、1415 年に ポルトガル 国王 ジョアン 1 世 による 地中海 入り口 ( ジブラルタル 海峡 ) の アフリカ 側にある モロッコ の都市、セウタ ( Ceuta ) への攻略がきっかけとなりま した。 この戦闘に兄 たちと共に参加 した エン リケ 王子 ( Henrique、1394~1460 年 ) は イスラム 教徒の海賊の根拠地 セウタ で、 アフ リカ 大陸 における財宝の話や プレステ ・ ジョアン の伝説 ( 注 参照 )を耳に しましたが、 後に アフ リカ 西岸の探検航海をすることに しま した。 [ 注 : プレステ ・ ジョアン ]当時の ポルトガル は隣国 カスティーリャ ( スペイン ) との争いや イスラム 教徒との戦いで悪化 した 国の財政事情を立て直すためには、地中海貿易に参加 したかったのですが、そこには 11 世紀末に始まった 十字軍 の出港地となった 北 イタリア の ベネチア と ジェノバ の繁栄があって、彼らイタリア商人による東方貿易 ( レヴァント 貿易 )での イスラム商人との取引が活発であり、ポルトガル の出る幕ではありませんで した。 つまり ポルトガル にとって残された 国の発展に通じる道 は西の大西洋に進出するか、あるいは南のアフ リカ 大陸に進出 するか しか、方法がありませんで した。 彼らが特に求めたのは ローマ 時代には単位重量当たりの価格が、金と同 じといわれた貴重品の コショウ ( 胡椒 ) などの香辛料 ( スパイス、spices ) や 象牙 ・ 金 ・ 銀 の発見のほかに、プレステ ・ ジョアン の国の捜索が目的であったと言われています。 ( 2-1、海洋進出ができた理由。 )
![]() 彼自身は 一度も アフ リカ 探検航海には行きませんで したが、航海学校の卒業生たちはその後の ポルトガル の海洋進出 ・ 発展に大きな役割を果た し 大航海時代の幕開けとなりま した。 ( 2-2、海の果て ) エン リケ 王子のことを エン リケ 航海王子 ( 英語で、ヘンリー 航海王子、Prince Henry the Navigator ) とも呼びますが、彼は 「 キリスト 騎士団長 」 に任命されていま した。 そのことは彼の宗教的情熱のよりどころであると共に、「 テンプル 騎士団 」 ( 日本語では 「 神殿騎士団 」 や 「 聖堂騎士団 」 などと呼ばれる ) の流れを汲む 「 キリスト 騎士団 」 からの財政的支援を受け、それが探検の資金源にもなっていま した。 ![]() ![]() ![]() ( 2-3、ディアス、喜望峰に到達 ) エン リケ 王子の派遣 した船団は アフ リカ 西岸に関する様々な情報をもたら しま したが、それによって アフ リカ 大陸の南端を回れば貴重な 胡椒 ( コショウ、 Pepper ) の原産地である インド に行くことができるかも知れないという可能性が出て来ま した。 そこで ポルトガル 国王 ジョアン 2 世は バルトロメウ ・ ディアス ( Bartolomeu Dias ) 、英語読みでは バーソロミュー ・ ディアス ( Bartholomew Diaz、1450 ~ 1500 年 ) に アフ リカ 南端を回って イ ンド への航路発見と、「 プレステ ・ ジョアン 」 の国の情報を集めることを命 じま した。 ディアスは 1486 年に アフリカ 探検の船団長に任命され、翌年 8 月に武装 した キャラベル 船 2 隻 ( 旗艦 サン ・ クリストファ ) と補給船 1 隻の 3 隻の船団で リスボン を出発 しま した。アフリカ 西岸に沿って南下 しま したが、南緯 29 度付近で嵐に遭遇 し 13 日間の漂流を余儀なくされま した。 ![]() その後 ディアス は東進 して インド 洋へ抜けようと思いま したが、航海はすでに 八 ヶ月以上経過 しているために乗組員たちは ポルトガル へ帰ることを主張 したので、ディアス も彼らの意見を受け入れま した。 帰途に アフ リカ 大陸から南に張り出している岬を発見 して上陸 し、彼が遭遇 した荒天にちなんで 「 嵐の岬 」 ( カ ボ ・ トルメ ン トソ、Cabo Tormentoso ) と名付けて記念の石柱を立てま した。 これが以後有名になる、喜望峰の通過 ( 同年 5 月 16 日 ) で した。 国王の ジョアン 2 世は インド などの東方への道が拓かれたことを大変喜んで、「 嵐の岬 」 を 「 希望の岬 」 ( カ ボ ・ ダ ・ ボ ア ・ エスペランサ、Cabo da Boa Esperanca ) と名付けま した。 しか し現在では 喜望峰 ( Cape of Good Hope ) の名称が定着 しています。 [ 3 : バスコ ・ ダ ・ ガ マ ]![]() ![]() ( 3-1、な ぞ の 病 気 ) その当時 ヨーロッパ から遠 く離れた 地域 に帆船 で 航海する船乗 りにとって、恐 れられて いた 「 な ぞ の 病 気 」 がありま した。 その症状とは 脱 力 や 体重減少、鈍痛 に加 え、次 のような 症状 が 見 られま した。
鏡を覗 くと、俺の 歯茎 はすっかり 腐 って しまった。真っ黒な 腐 った血 が 流 れ 出て いる。太 ももは 壊疽 ( えそ、壊死 した組織が 感染 などで、性状 や 外観が 著 し く 変化 したもの ) を起 こ していて、俺は ナイフ でこの腐った肉を削り取って、どす黒い 血を無理やり流 し出す。バスコ ・ ダ ・ ガ マ の 船団 の 中 にもやがて 「 謎 の 病 気 に 罹 る 患 者 」 が現れま したが、治療法も分からずに寝たままになりやがて死んで行きま した。4 隻の乗組員総員 170 名の 中 で インド 航路を 開拓 して ポルトガル の リスボン に帰るまでに、 約 100 名が 死亡 しま した。死亡率 5 9 パーセント で、その中には ガ マ の兄 で 船団 副司令官の パ ウ ロ ・ ダ ・ ガ マ も含まれていま した。 ところでこの病気と食べ物の奇妙な関係に最初に気付いたのは、ガ マ が 最初 の 航海を終えて 帰国 してから 2 5 4 年 後 の こ と で 、英国海軍の 軍医 ジェームズ ・ リ ン ド ( James Lind ) で した。 1747 年に イギリス 海軍の軍艦 サリスベリー号 ( H M S Salisbury ) に乗り組み、「 な ぞ の 病 気 」 の 臨床実験を した結果を基に、1753 年に A treatise of the Scurvy という論文を発表 しま した。 その中で 「 なぞの病気 」 は 、 柑橘類 ( かんきつるい、オレンジ や レモン など ) と 新鮮な野菜 を食べることでこの病気を予防 し、 治癒 ( ちゆ、治すこと ) できると しま した。 つまり現代風にいえば、「 なぞの病気 」 の正体とは、 「 ビタミン C 」 の欠乏 がもたらす 壊血病 ( かいけつびょう ) で した。 「 ビタミン C 」 が欠乏すると 組織間 をつなぐ 「 コ ラ ー ゲ ン 」 や 「 象 牙 質 」、「 骨 の 組 織 」 の 生成 と 保持 に 障害 を 受 け、これがさらに 血管等 への 損傷 につながることが 原因 で した。 ビタミン C の不足が 3 ヶ月 近 く 続 く と 発病 します。 ![]() ( 3-2、インド の カリカット へ ) ![]() ( 3-3、 一 番 乗 り で は な か っ た 、 ガ マ ) 残念なことに バスコ ・ ダ ・ ガ マ は、 インド を訪れた最初の ポルトガル 人ではありませんで した。 彼に先立つこと 10 年前の 1488 年に、 国王 ジョアン 2 世が 「 プレステ ・ ジョアン 」 の国の情報を求めて派遣 した ポルトガル 人 コヴィリャン が、地中海から カイロ、アデン( Aden、アラビア 半島南端の港で、現 ・ イエメン共和国の港湾都市 ) などを経由 して インド の カリカット に到達 していま した。 コヴィリャン 自身は後に エチオピア で死亡 しま したが、彼の書いた報告書は ポルトガル にもたらされ、インド や エチオピア に関する貴重な情報源となり、後の バスコ ・ ダ ・ ガ マ による インド 航路開拓に とても役立ちま した。 ガ マ は インド で プレステ ・ ジョアン ( プレスター ・ ジョン ) は見つけられなかったものの、カリカット の王と外交交渉をおこない香辛料の見本を手に入れ、それを持って ポルトガル への帰路につきま したが、その航海も寄港地での イスラム 教徒との争いや 「 なぞの病気 」 で乗組員が次々に死んでいくなど苦労の連続で した。 その頃 ポルトガル 本国では、インド に向けて出発 した バスコ ・ ダ ・ ガ マ 率いる船団が 2 年近くも帰国せず、 行方不明になったと して 半ば諦めかけていたところへ、1499 年 7 月 10 日に船長の ニコラ ・ コエリョ ( Nicolau Coelho、1460 ~ 1504 年 ) が指揮する船が ぼろぼろな状態になって リスボン 近郊の漁港にたどり着きま した。 コリョ は直ちに マヌエル 王に拝謁 ( はいえつ ) して、 バスコ ・ ダ ・ ガ マ 率いる船団が、 インドに到達 できたことを報告 し ま した。 ちなみに バスコ ・ ダ ・ ガ マの指揮する船 ( サン ・ ガブリエル 号 )は、病気で死にかけていた兄の パウロ ・ ダ ・ ガ マ を アゾレス 諸島で手当を しようと テルセイラ に針路を向けま したが、 パウロ は島に着いた翌日に死亡 したため、フランシスコ 会修道院の教会に埋葬して、数週間遅れて帰国 しま した。 この船も外板の継ぎ目が剥がれ、船底に溜まる海水を汲み出す手動の排水 ポンプ ( ビルジ ポンプ、Bilge pump ) が 「 きしむ音 」 をあげながら、何とか船が沈まないように水夫たちが懸命に排水作業を しながら帰国の航海を しま した。 前述 したようにおよそ 170 人の男たちが 4 隻の船に分乗 して リスボン を出発 しま したが、ガ マ の兄をはじめ 100 人以上が 「 ビタミン C 」 の欠乏が原因の 壊血病 に 罹って死亡 し、2 年後に生きて帰国できたのは 2 隻の船に乗った 5 5 人 だけで した。 資料によって違いがありますが、ヨーロッパ から インド 航路開拓という重要な任務は 7 3 2 日間 を要 し、船団が航行 した距離は 3 万 8 千 4 百 キロメートル に及びま した。 これは時間的にも距離的にも、ある意味 史上最長の航海で した。 ガ マ の航海が成功 したことにより、これまで イタリア 商人、エジプト 商人 ( アラビア 人 ) などを経由 していた インド との交易を、ポルトガル 船により直接できる可能性が出てきま した。 ガ マ には 30 万 レアル の年金が下賜され、「 インド の提督 」 に任命されま した。 [ 4 : 第 2 次 イ ンド 遠 征 船 隊 ]ガ マ の船団が帰国 し イ ンド 航路が開拓されると、マヌエル 1 世 王は更に イ ンド との 交易確保と キリスト 教布教を目的と して多数の船を イ ンド に派遣することに決めま した。![]() ( 4-1、 ブ ラ ジ ル を 発 見 ) 航海経験豊かな人材を集めたはずなのに、カブラル の船隊は出発早々前述の不運に見舞われ 1 隻を失いま した。ガ マ がおこなった 1497 年 ~ 1499 年の航海で作成 された 「 東方航路図 」 に従い大西洋 大回り コース をたどる途中で船隊は嵐に遭遇 し、大きく流される途中で偶然にも陸地を発見 しまし た。1500 年 4 月 25 日に安全な停泊地を見つけて入り、ここを ポルト ・ セグーロ ( Porto Seguro 、安全な港 ) と命名 しま した。 船隊司令官の カブラル はこの島 ( 実は 南米大陸 ) を 「 サンタ ・ クルス( Santa Cruz 、聖十字架 ) 島 」 と命名 し、「 島 発見 」 の報告書を持たせて、1 隻の食料補給船を リスボン に帰 しま した。 これが トルデシリャス 条約 ( 注 参照 ) による境界線の東側にあったので、この地域は ポルトガル の支配下に入り、ポルトガル が ブラジル を植民地とする出発点になりま した。 [ 注 : トルデシリャス 条約とは ] 1494 年 6 月 7 日に スペイン と ポルトガル の間で結ばれた条約で、当時両国が盛んに船団を送り込んでいた 「 新世界 」 における紛争を解決するため、教皇 アレクサンデル 6 世の承認によって ヨーロッパ 以外の 新しく発見された領土の分割方式 を取り決めた。カブラル の船隊は喜望峰を目指 して航海を続けま したが、5 月 23 日に激 しい嵐に襲われ、 4 隻が沈没 しま したが、その中には 1488 年に 嵐の岬 ( 喜望峰 ) を最初に発見 した バルトロウメ ・ ディアス の船も含まれていて、遭難船の生存者は 一人もいませんで した。この他にも荒天により 1 隻が 船隊から はぐれて しまい帰国 したので、以後船隊は半分以下の 6 隻 となりま した。 カブラル の船隊が インド の カリカット の沖合に到着 したのは リスボン を出てから半年後の 9 月 11 日のことで した。カブラル は カリカット 国王との交渉で友好条約を結ぶ事に成功し、商館開設の許可と、貿易に際して ポルトガル 船に積み荷の優先権を与えることが決まりま したが、以後国王側に裏切られ敵対関係となりま した。 カブラル とその船隊は インド の コチン ( Cochin、現在では コーチ、Kochi という ) に向かい そこで コチン 王とも友好条約を結び、長年求めていた 「 コショウ 」 を積み込み、他の場所では香辛料の シナモン ( Cinnamon、肉柱、ニッキ ともいう ) を積み込みま した。 しか し帰途にも喜望峰付近で再び嵐に襲われ 1 隻を失い、1501 年 6 月 23 日に 1 年 3 ヶ月 ぶりに リスボン に帰りま した。 出発時には 1 3 隻であった船隊で したが、司令官の カブラル と共に帰国 したのは 4 隻であり、あと 1 隻は遅れて着きま した。 カブラル の インド 遠征船隊は大きな犠牲を払いま したが、今後の ポルトガル の交易活動に指針を与えると共に、ブラジル 発見により将来 ポルトガル の発展につながる大きな植民地を獲得することになり、ポルトガル の財政改善に大きく貢献することになりま した。 対 インド 交易 においては コチン 王国 と友好関係を 築き 商館を 設置 したことは、将来 ポルトガル が コチン を中心にこの地域で活躍する拠点となりま した。
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